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平成19年10月、インド研修旅行の機会に恵まれました。かつて「仏祖の國天竺(てんじく)」と呼ばれた遙かなる大地、カースト制度を含めた中世的伝統社会が現代(いま)に至るまで残ると言われる神秘の国インド。今回の目的であるインド石造美術を中心に現地の様子をご案内します。(文、写真:谷田部 修)
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朝9:00成田空港第1旅客ターミナル南ウィングに石文化研究所 小畠先生を筆頭に私を含め13名が集合。インド旅行を前に期待と不安で胸が高鳴ります。 AM11:00成田発タイ国際航空に搭乗し、空路約6時間半、現地時間の午後3:30に中継地バンコク国際空港に到着。ここで関西国際空港から搭乗した2名が合流し、インド石造美術研修ツアーの総勢15人が揃う。 夕方6:05デリーに向けバンコクを出発。バンコクからデリーまで約4時間、機内にはサリーを着た女性やターバンを巻いた立派な体格のインド人乗客が目立ちます。現地時間夜8:40デリー国際空港に到着。成田から合計約13時間の長旅です。 到着して驚いたのは空港のトイレ。トイレットペーパーが無く、取っ手の付いた大きなコップが置いてあるだけです。コップには壁から水が注がれていて、この水を使い左手で器用に洗い流すそうです。ガイドはインド流ウォシュレットと言っていましたが、さすがにこれは真似出来ません。 近年のインドはIT産業や製造業を中心に経済成長を続け、BRICsの一角として注目を集る存在ですが、空の玄関口はこの有様です。お隣中国の発展を目の当たりにしていると、インドはまだまだこれからという印象が拭えません。 入国審査ホールを通り抜け、荷物を受け取り空港の外に出た途端、むっとした空気と怪しげな客引きの群れが押し寄せて来ます。彼らをかき分けながらやっとの思いで専用バスに乗り込みます。 空港で出迎えてくれたのは、ツアーガイドのARUN KUMAR GUPTA氏(42歳・男性、通称:アルンさん)。ヒンドゥー教徒でインド・アーリア系特有の浅黒く彫りの深い顔つきです。独学と謙遜する日本語も達者な聡明な人物。「私の名前は“有るん”です」などくだらない冗談を飛ばすが目は笑ってない。(この人物の本性は4日目に明らかとなる)宿泊先のホテルに空港から40分ほどで到着。
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| 第二日目(10月8日)カジュラホのヒンドゥー寺院群 |
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朝8:30ホテルを出発しデリーの空港へ。細い路地を抜け埃っぽい駐車場に停車すると目の前に古ぼけた空港ターミナルが見えます。昨日とは違い国内線専用空港のようです。ここから1時間15分程のバナーラスを経由し、今日の目的地カジュラホへと向かいます。 因みに経由地のバナーラスはガンジス河畔にあるヒンドゥー教最大の聖地・シヴァ神の聖都。ここで沐浴すればすべての罪は浄められ、ここで死に遺灰がガンジスに流されれば輪廻からの解脱を得られるという。しかし眼下のガンジスはごくありふれた河にしか見えず少々拍子抜け。空から眺めるだけでなく、やはり現地で沐浴を体験すべきなのでしょう。 飛行機はしばらくガンジスに沿って飛行した後、徐々に南下し40分程で駅舎のような空港に降り立ちます。カジュラホは世界遺産を擁する有名な観光地ですが今は小さな田舎町。バスの車窓からは、天高く伸びる椰子と田園で働く人々が見えるだけです。ホテルで遅い昼食を済ませた後、遺跡巡りを開始。
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今から1000年以上前に、月神チャンドラの子孫と称するチャンデーラ王朝がその最盛期(950〜1050)に85もの寺院を建立したそうですが、14世紀イスラムの支配下に入ると偶像崇拝として破壊対象となり、現存するのは村全体で22寺院。 西の寺院群は一番規模が大きく、芝生で公園風に整備された区域のなかに10あまりの寺院が林立しています。 まず現地ガイドからヒンドゥー建築(北部)の様式について説明を受けます。ヒンドゥー寺院の第一の特徴は空にそびえる尖塔状の屋根(シカラ)と、その上に円盤(アマーラカ)、頂上に水壺(カラシャ)という造形です。それぞれヒマラヤ山脈、聖なる果実、聖河ガンジスの水を表すそうで、特に水壺(カラシャ)は宝珠や舎利瓶に酷似していて仏塔(ストゥーパ)との関連を想わせます。 靴を脱ぎ内部へ進むと中は真っ暗闇。コウモリの糞が発するアンモニア臭が鼻を突きます。暗闇に目が慣れると次第に構造が明らかになります。内部はやや広いホールになっていて、中央に伎楽を奉納するための小さな舞台が設けられてる。その奥に小部屋があり、ここは主となる神が祀られる重要な場所のようです。これは後で調べたことですが、奥の小部屋はガルバグリハ(生命の宿る子宮)であり、手前のホールがマンダパ(拝堂)というそうです。 内陣と礼堂から構成される日本の寺院建築と相通じるものがある。また、寺院に施された彫刻は香箱・蓮華・スリン・返華・須弥檀といった日本のお墓に使われる様式が数多く見受けられ、インドを源流とした文化・芸術が時間と空間と超え、はるか日本で息づいていることに感嘆を覚えます。 我々石材店は悠久の文化を今に受け継いでいるんですね。
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さて、カジュラホを世界的に有名にしているのは何といっても寺院の壁面を彩るエロチックなミトゥナ像(男女交合像)です。 本邦四十八手も真っ青になる多種多様かつユニークな体位の像たち。アクロバチックなものから何と獣姦まで有ります。彫像の数はカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院だけで実に外部646、内部226。4世紀にまとめられた性典「カーマスートラ」或いは性交を通じ宇宙の最高心理を知ることを目的とするタントラ教を視覚化したというもので、執拗で徹底した性の追求、恍惚が法悦に通じるということなのでしょうか?邪淫と言ってしまえばそれまでですが、インド中世美術の一つの到達点であるのは間違いありません。艶めかしく、限りなく具象であるだけに、いささかくたびれます。 寺域をひとめぐりした頃には日差しも傾きかけ、峻嶮な峰々を思わせる寺院群が美しいシルエットをつくり出す夕暮れ時、官能の世界に圧倒され上気した頬が、爽やかな風に吹かれます。
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東の寺院群は西の寺院群から1キロ程、規模もずっと小さく3寺院ほど。ジャイナ教のパールシュヴァナータ寺院を見学します。ジャイナ教は仏教とほぼ同時期に始まった宗教で、カースト制の否定と徹底した不殺生を掲げ、厳しい戒律を守っています。ヒンドゥー教に取り込まれた仏教とは対照的に、ジャイナ教は現代も根強く生き残っています。官能的なミトゥナ像こそありませんが、寺院の構造はヒンドゥー建築と大差ありません。 (民俗舞踊) 民俗舞踊が観られるというので、遺跡巡りが終了後小さな劇場に立ち寄ります。場末のストリップ劇場のような風情で4人ほどの楽団が緩い前奏曲を流しています。客は私たちだけなのかと思いきや開演時間直前にほぼ満席。他に行くところもないのでしょう。演目は6つほどで、概ね賑やかなミュージカル仕立になっています。
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早朝5:30に専用バスでホテルを出発。これから約180キロ、6時間ほどの行程でジャンンスィー(Jhansi)駅へと向かいます。 早朝にも係わらず街道は乗り合いバスやトラック、そして牛車が混じりなかなか賑やかです。夜明けとともに荒涼とした褐色の大地が目前に開け、素晴らしい光景が現れます。菩提樹が続くほぼ一直線の街道をひたすら走りようやくドライブインで朝食。 この売店で小畠先生が白いクルター(丈の長いインドシャツ)を購入。私も麻綿混紡で長袖のゆったりとしたシャツを購入。この時期インド北西部はまだまだ暑いのですが、車内やホテルの中は冷房が効いて肌寒い。長袖シャツはインド旅行で非常に重宝します。
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昼前にジャンンスィー駅に到着。ボパール(Bhopal)駅行きの列車を待ちます。駅には改札が無く、沢山の人が自由に出入りしています。人だけではなく残飯を漁る牛たちが我が物顔でホームや線路をうろついているため周囲は凄まじい悪臭。 しばらく待つと旧式の列車がホームに到着。車内はエアコンが効いて存外快適です。出発して間もなく、カレーとナンの美味しい車内食が配られます。配るときボーイが何かを聞いてくるのですがどうやらVege or NonVege?と言っているらしい。そう、インドには菜食主義者が多いのです。余談ですがツアーガイドのアルンさんもベジタリアンなのだそうです。 午後14:30ボパールの駅に到着。専用バスに乗り換え今日の目的地サンチー遺跡へと向かいます。途中パキスタンからの難民キャンプがあり、インドの厳しい現実を垣間見ます。 駅から北東に46キロほど平野を走ると、次第になだらかな丘陵地帯が見え、さらに進み標高100mほどの丘を登るとそこに西日に照らされた大ストゥーパが姿を現します。
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「サンチーが重要であるのは、近代に修復されたとはいえ古いストゥーパがほぼ元のかたちのまま残されていることに加え、仏教がインドの広い地域に伝播した前3世紀から、急速に衰退した11世紀までの長期にわたる遺物や遺構が時代的に偏り無く現存することである。」(世界歴史の旅 北インド 山川出版社) 四大仏跡とは異なり釈尊が実際に訪れた場所ではありませんが、インドに現存するストゥーパとして最も美しいという評判通り非常に素晴らしい仏塔です。 第1ストゥーパ(大塔)は東西南北それぞれに鳥居状の塔門(トーラナ)か設けられ、周囲を欄楯(ヴェーディカー)という玉垣が囲む。そこには本生譚(ジャータカ)を題材にした精巧な浮彫が施されています。欄楯の内側には遶道が通り、ぐるぐる回りながら仏塔をお参りするように出来ています。 右遶三匝といって合掌しながら右回りに3回巡する作法に倣い、私も高段の遶道を静かに歩き出す。するとスリランカからの巡礼と思しき婦人からサンダルを脱ぐよう促される。そう、巡礼の人々は皆裸足なのです。非礼を詫び裸足になって再び歩き出すと、足の裏から心地よい温もりがじんわりと伝わってくる。南門から時計回りに西側へと巡った途端、見晴らしのよい遶道からインドの夕日と広大無辺の大地が目の前に広がってきます。「嗚呼!浄土はまさにここにあるのか!」そんな感動に包まれる一瞬です。
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第1ストゥーパの周囲には第3ストゥーパのほか高僧達の小型のストゥーパが建てられ、それらを核に僧院や仏像を祀った祀堂が徐々に建設され、一大伽藍が形成されています。寺院の中心にストゥーパ=「お墓」が配されていることがここサンチーでよく分かります。一方、今の日本のお寺では、仏像(本尊)に比べ仏塔(お墓)が軽視されているような気がしますが・・・。 サンチーは観光客も少なく、当日も我々のグループのほか先ほどのスリランカからの巡礼団くらいしか見当たりません。辺りはだいぶ暗くなりました。 帰りのバスからは炊食の焚き火があちこちに見られ、村に電気が通っていないことが窺えます。村人たちの現実は厳しいものなのでしょう、それでも野良で働く女性はピンクやブルーの鮮やかなサリーを身にまとい、車窓からの光景は、まるでミレーの絵画を見ているようです。
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ボパールに戻り、夕食後寝台列車でブシャワールへ。3段ベッド寝台車はほぼ満員で、荷物が通路にまで溢れています。人と荷物をかき分けながら、何とかベッドの棚に体を押し込みます。先客のインド人乗客が怪訝そうにこちらを覗い、一瞥すると再び毛布に潜る。車内は薄暗く、鋭い目だけがギョロっと際立っていて気味が悪い。それでも早朝から長距離移動した疲労と、広軌で案外静かな車両のためか、あっという間に眠りにつきます。
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早朝5:30ブシャワール駅に到着。駅周辺で朝食を済ませた後、専用バスに乗りデカン高原を南下、2時間半ほどかけてアジャンタへと向かいます。テーブルマウンテンと平地とが交互に続くデカン高原は意外に農業が盛んです。トイレ休憩はいつも道端。一面に広がる綿花畑のなかでスッキリさせます。 石窟寺院で名高いアジャンタの歴史は紀元前2世紀頃、仏教僧が雨季の雨を避けて修行を続けることができるようにと石窟寺院をワーグラー渓谷の断崖に彫ったことに始まります。30ほどの寺院群は僧たちが起居する僧院(ヴィハーラ)と仏塔に礼拝を行う塔院(チャイティア)がセットになって構成されています。寺院群は前期の上座部仏教期(紀元前2世紀頃から紀元前1世紀にかけて)と、後期の大乗仏教期(5世紀から7世紀にかけて)に彫られた寺院とに分けられ、その変遷の様子が分かります。
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前期の寺院は装飾が少なく簡素な構造ですが、後期になると優美な彫刻や絢爛な色彩の壁画が見られるようになる。僧院(ヴィハーラ)の造りも、僧たちが起居する小さな僧坊がホールを取り囲むだけの簡素な構造から、奥に祀堂を設け仏像を祀る形式へと発展を遂げます。仏塔(ストゥーパ)の造りは半円と台形を組み合わせただけのシンプルなものから、仏像を彫り込んだゴージャスな仏塔になります。 抽象から具象へと変化する様子を見比べると、後期の作品は非常にくどく、一方、前期の作品は一種の潔さがあり、好ましく感じられます。 これは『「日本人のお墓」序論「お墓とは何か」』のなかで、日本人のお墓の形状コンセプトについて述べられている箇所『1,素朴であること2,力強さがあること3,おおらかであること4,見飽きないこと5,抽象的で、生前の痕跡を残さないこと』と共通する美意識ではないでしょうか。
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カジュラホのミトゥナ像でもそうでしたが、シンボルに具象を用いられると、見ている方が疲れます。 そういえば初期の仏教美術は釈尊の像の代わりに「菩提樹」や「仏足」や「仏塔」(ストゥーパ)を専ら釈尊のシンボルとしていたのです。こうして見てくると、つくづく人間は、簡素素朴→豪華絢爛、直観的→理論的、寡黙→饒舌、という傾向に走ってしまうものだと感じます。表面的な技巧の優劣だけでなく、かたちが象徴する精神や思想を掘り下げることも大切なんですね。
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遺跡近くのツーリストバンガローで昼食をとり、今日の宿泊地アウランガバードへ向かいます。“バード”とは“街”の意味で、これが付く地名はイスラム教徒が造った街だそうです。因みに“プール”が付く街はヒンドゥー教徒の街です。 チェックインまで時間があるので市内のバザールに立ち寄ります。イスラム教徒起源の街だけあって、女性は黒い衣装、男性は白い小型の帽子を被るムスリムスタイルが多い。イスラムの女性は皆ヘジャブという黒一色の衣服を頭からすっぽり身にまとっていますが、実はそれぞれ異なる模様の銀刺繍があしらってあるので、個性的で美しい。ベールの隙間から覗く目はくっきりとした二重の綺麗な黒目、睫毛が濃く長く魅力的です。ついつい見とれてしまいますが、よそ見をしていると危ない。バイクやオートリキシャーが買い物客でごった返す小道を強引に走り回り、スリにも気をつけなければいけない。排気ガスでむせ返るバザールを一巡すると汗が一気に噴き出してきます。 (ホテルで) 当日宿泊するホテルはラーマ・インターナショナルといってアウランガバードでも1,2を争う高級ホテル。夕食後、数名が部屋に集まり雑談(飲み会)をしていると、3名が「いやー、買わされちゃいましたよ」と言いながら入ってきました。ホテルの売店を覗いていると、ツアーガイドのアルンさんが何処からともなく現れ、強引に土産物を買わせられたらしい。しかも複数ある店舗のうち特定の店を指定するのは、店とグルになっている証拠。言い値が売価の30倍近くのものもあり、これには皆ビックリ。
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朝8:00にホテルを出発し、今回インド最後の観光地になるエローラを目指します。高地に築かれたダウラタバードの巨大砦を西に望みながら、バスで一時間ほどの距離。深い渓谷に彫られたアジャンタ遺跡と違い、台地の突端に建造されているのでアクセスは容易です。なお仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教のそれぞれ寺院群が隣接しており、互いに共存関係であったと考えられています。
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見学は仏教寺院から開始。仏教石窟群が造られたのは仏教がインドで衰退していく5世紀から7世紀頃。アジャンタと比較すると全体にゆったりと造られていて、一つ一つの規模も大きい。3層(3階建)の巨大な僧院(ヴィハーラ)もあり、まるで学校のようです。塔院(チャイティア)もこの頃になると仏塔(ストゥーパ)の手前に仏像が置かれ仏塔が目立たない。仏塔から仏像へと崇拝の対象が移り変わる傾向が見られます。
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エローラ最大のみどころはヒンドゥー教石窟群にあるカイラーサナータ寺院。岩山を奥行81m、幅47m、高さ33m、何と20万トンもの石を、8世紀中頃からおよそ100年という気の遠くなるような期間をかけて掘り下げ、そこに壮大な寺院を出現させたのです。したがってこれは「建築」ではなく「彫刻」なのです。 寺院の周囲はヒンドゥーの荒々しい神々、神獣の像がびっしりと彫られ、静寂につつまれた仏教窟と比べ、躍動感が感じられます。世界最大の彫刻ともいうべきカイラーサナータ寺院の強烈な存在感と、ヒンドゥー教の持つ生命力溢れるパワーには、ただ圧倒されるしかありません。
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ヒンドゥーパワーの余韻醒めやらぬまま、1キロほど離れた、北の外れにあるジャイナ教寺院へと足を運びます。ここの創建は9世紀頃。ヒンドゥー教窟と似ていますが、無所有を象徴する裸体の聖者像が特徴的。ジャイナ教信者は不殺生戒を徹底して守るため、農林水産業には就きません。商業や金融業者になるものが多く、生活に厳しい規範が求められる一方、財貨の蓄積は禁じられなかったため、裕福になる者が多かったそうです。何かマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が思い起こされますね。 以上でエローラの遺跡巡りは終了。もう少しゆっくり拝観したかったのですが、時間の関係上駆け足の見学となります。行きと同じバスに乗ってアウランガバードへ引き返し、近郊の国内線の空港へ。ここからインディアン航空で約1時間半、最終地のムンバイ(ボンベイ)まで向かいます。旧型の飛行機ですが、スチュワーデスも機体に負けず旧型のお婆さん。国営航空のため異動や解雇ができないそうです。夕方6:00ムンバイ国際空港に到着、空港内で夕食後、経由地バンコク行きのタイ国際航空に搭乗、現地時間の早朝5:00バンコク国際空港に到着します。
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早朝のバンコクは、若い女性が托鉢僧に布施をしている光景が見られ、仏教が生活に密着している様子が窺えます。午前中はホテルで休憩をとり、市内観光は午後から開始します。 最初にチャオプラヤ川をボートで渡り、ワット・アルンラーチャワラーラーム(三島由紀夫「暁の寺」の舞台となった寺。ワットは寺院の意)に向かいます。川沿いにたたずむ寺院の姿はバンコクの代表的な風景に数えられていて大変風情があります。陶器片で飾られた煌びやかな尖塔から、バンコク市内が一望できます。 次に黄金に輝く巨大な涅槃仏で有名なワット・ポーへ向かいます。全長46m高さ15mという大きさもさることながら、足裏の螺鈿細工が見事。ここから王宮及び隣接するワット・プラケオ(エメラルド寺院)はすぐ近く。 王宮に入ると広大な敷地に黄金や七宝で装飾された宮殿、仏塔、本堂が建ち並び、目がくらむようです。
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ところで、今まで見てきた仏教寺院の装飾には、なぜかヒンドゥーの神々が祀られています。仏教とヒンドゥー教が習合したのかと思いきや、実はアユタヤー王朝時代に国王が意図的に導入したという。絶対的な平等を説く仏教の考え方が、国家を統治するうえで不都合だったようです。国王は絶対で、すべての頂点に立っていなければならない。上座部仏教といえども妥協するところは妥協しているんですね。
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夕食後は、ムエタイを観戦に行くグループ、タイ式マッサージを受けるグループに別れたのでマッサージの方を選びます。2時間しっかりやってもらって日本円でチップ込み2千円ほど。最終日に旅の疲れを癒すのには実によい塩梅です。マッサージが済んでもまだ宵の内。ホテルの目の前にあるハッポン通りへ出るとそこは昼間とはうって変わってネオンと喧噪の世界。風俗店が立ち並ぶ新宿歌舞伎町みたいな通りに、土産物店や骨董屋、屋台などが混在営業していて街歩きにはとても面白い。骨董屋で香港製の古い風水盤を1,000円ほどで手に入れました。翌朝は早いので程々にしてホテルへと戻る。
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早朝4:30にホテルを出発し7:30バンコク発、成田行きのTG676便に搭乗。日本時間午後3:40成田に到着。7日間の研修旅行から無事帰国致しました。出発時よりも幾分肌寒さが増した日本の空気を感じながら帰路に就きました。
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近世のインドはタージマハールで有名なムガール帝国に代表されるイスラム諸勢力に支配されましたが、結局イスラム化しなかった。今なおヒンドゥー教徒が圧倒的多数(約8割)を占め、ヒンドゥー大国の面目を保っているのです。発祥の地である中東をはじめ、西アジア、中央アジア、東南アジアの多くの周辺地域がイスラム化したのにもかかわらず、なぜインドではヒンドゥーが根強く残ったのか。そもそもヒンドゥー教とは何か?そんな疑問を抱きつつ今回インド研修に参加させていただきました。 私のヒンドゥー教に関する予備知識といえば、夜店のブロマイドを彷彿とさせる俗っぽいヒンドゥーの神々の姿、男根(リンガ)を熱心に礼拝する習慣、カースト制度、髪も髭も伸び放題のヨガ行者、といった、どちらかというと異様な宗教というイメージでした。日本人にとってインドを未知なものにしている事情は、実はその辺にあるのかも知れません。
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ところが、今回インドへ行き、遺跡を巡り、インド社会を垣間見て感じたことは、ヒンドゥー文化への近親感です。それは、インドで目の当たりにするイスラム文化が、私たち日本人の宗教観とあまりに異なるからなのでしょうか。厳しい一神教で、偶像崇拝を破壊、拒絶するイスラム文化は日本人の私からみて異様というより全く異体です。その反動もありますが、ヒンドゥー文化には村の地蔵さんや鎮守さんに対する素朴な信仰のような、何ともいえない懐かしいものが感じられるのです。 ヒンドゥー教とは、イスラム教でいうところの「宗教」というものではなく、インドの大地に根付いた「精神(こころ)」のようなものではないか、仏教や儒教や道教、近世ではキリスト教の影響を常に受け入れながらも、結局は全てを飲み込んでしまう日本人のDNA、日本の風土に染みこんだ精神と同質・同根ではないか、だから近親感を覚えるのではないか、そんなことを考えさせられました。 インドでは“かつての日本”がそうであったように、その「精神(こころ)」が現代(いま)も活き活きとしている。インドで感じるある種の懐かしさ、ノスタルジーはそこにあるような気がしてなりません。 石造美術の素晴らしさもさることながら、インド最大の魅力は、生きているヒンドゥー文化である、私はそのように確信しました。 初めてのインド旅行は、同行いただいた皆様を始め、関係各位のお陰をもちまして、このように楽しくまた貴重な体験をすることができました。心より御礼申し上げます。
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